「ダメな自分を受け入れる・認める」ってなんか違うと思うのです
自己肯定感を高めるために「ダメな自分を認める」という話。どこかで見たり聞いたりした事があるんじゃないでしょうか。ヴァイラーギャ(非執着・離欲)について、「自分に期待しない、諦める」ってことをテーマに書こうといろいろ考えていましたが、なかなかまとめるのが上手くいかなくて、あれこれ考えるうちにふと「ダメな自分を受け入れる・認める」って、違うんじゃないかと気がつきました。言葉の綾と言えばそれまでですが、思い違いが起こりそうだなと思うのです。「ありのままを受け入れる・認める」ならわかるのですが。
だってダメじゃないから。
ダメというのは相対的な言葉で、何かと比較している状態。比べる事に意味も意義もない。なのに、何と比べてダメなんて言ってるんです?という話です。
そもそも何が良くて何がダメなんでしょう?例えば、世の中の普通、一般って、誰が決めたんでしょう?大人数で何か決めたり、話したり、人をコントロールするのに都合が良いから誰か、学者とか、時の権力者とか、記事を売りたいマスコミとか、商品を売りたい企業とか、とにかく人が勝手に決めた枠組みです。神様が決めたわけでも絶対真理でもありません。そして、子供の頃に大体偉人伝とか読まされませんでした?私は好きで読んでいましたが。そうでなくても、正義の味方、ヒーロー、成り上がりの物語、今ならYouTuberやVtuberなど注目される人、かっこいい、美しい、素晴らしい人ってこんな人という姿が子供の頃からたくさんインプットされるわけです。それにいつの間にか染まってしまって、こうあるべき、こういう人が幸せな人、こういうのが成功した人、こういうのが普通、こうでありたい、という理想の自分像を無意識のうちに作ってしまいます。それと比べて、「自分はダメ」という意識が生まれたのではないでしょうか?
今の流行りの言葉でまさに「それってあなたの感想ですよね」です。私はもっと突っ込んで「それってあなたの妄想ですよね」と言いたいです。
もっというと「流通の都合が良いように決められた規格サイズの野菜は良くて、大きすぎ、小さすぎはダメ。廃棄か格安で売る」というようなことと同じことを自分に対してしている状態です。ひどいです。自分がかわいそうですよね。
ダメじゃないので「ダメな自分を認める」のではなく、まずはその妄想を手放したほうが良いのでは?と思うわけです。その次に「結果に執着しない」です。この場合は「理想の自分像」が結果に当たります。理想目指して努力して結果に執着しないのですが、
「他人に期待しない&諦める」を自分に対してもやる感じです。
が、結構難しいです。個人の体験談しか持ち合わせずすみませんが、私も若かりし頃、自分が嫌いでもがいていました。勉強もそこそこできて小器用な私は、なんでも努力すれば成し遂げられるという勘違いをしていました。自分に期待していたわけです。こうなりたいという理想像があったわけですが、努力すればするほど、やればやるほどできない、なれない自分に直面していき自分の嫌いな面ばかりが見えて自分が嫌いでした。ある日、何かきっかけがあったかどうか覚えていないのですが、自分は自分が思っていたほど上等な人間じゃなかったって事に気づきました。コレだけだと「ダメな自分を認める」って感じですが、それにプラスして、そもそも人間自体が不完全で愚かな生きもの。どんなに成功して幸せそうな人でも完璧じゃないし愚かな過去や面があるというふうに自分がダメというより人間自体がいわゆる「そんなもん」と思えてしまったのです。そしたら、自分に期待なんかしてないので、自分を褒めてくれる人の言葉が嬉しいく感じられますし、信じられるようになり(それまで褒められても嬉しくなかったのです)そうすると、自分の良い部分に気づいたりもします。結果が出なくても頑張った自分を偉いぞって思えるようになっていきました。
いつの間にか長年にわたり染み付いた妄想を追い払うのは一朝一夕ではおそらく無理です。私は無理でした。自分への嫌悪や劣等感でウダウダグルグル悩む度に「自分に何期待してたんだよ。人間なんてそんなもんなんじゃん」と言い聞かせてました。卑屈に聞こえるかもしれませんが、ちょっと違うんです。「人間なんてそんなもの」なんです。間違っても「自分なんてそんなもの」ではありません。だんだんと「人間だもの」という相田みつおさんの言葉を合言葉のように唱えるだけで良くなり、そのうちそれもいらなくなりました。人間なんて種類は色々だけど「そんなもん」と考えると、他者に寛容になりましたし自分に対してもダメという概念がなくなっていきました。コレをするのは苦手というものや、これは直した方がいい悪い癖だなぁというものはありますが、それに対して対処しようとは思うけれど、それで自分が嫌いという発想にはならないです。
これは、頭で理解していることと、腑に落ちることとで全く違います。理解しているつもりで全くの他人の失敗は「人間だもの」で許せてもどこかで「自分はあの人とはちがう」という「自分に期待する」意識が根強く残っていたりして、自分ができないとやっぱり許せなかったりという事が起こります。
何年も、もしかしたら十数年、何十年とかけて、いろんな呪いのような妄想を手放すには時間がかかります。そして、今回は私の妄想を手放せた体験であって、手放していくきっかけや過程、キーワード(私の場合は「人間なんてそんなもん」)は人によって違います。キーワードがあるのはとても助けになるので、ぜひ読書をお勧めします。いろんなタイプの作品を読んでください。自分にぴったりのキーワードが見つかるかもしれません。
そして、ちょっとやってみて「手放せない自分はダメだ」ってなる方いますが、「だからそれが妄想だし、執着だってば!」と言いたくなります。時間かかっていいんです。
妄想を手放してありのままの自分を受け入れられるといいですね。このとても身近な「執着すること」には苦しみがくっついてくるので手放した方が良いとされています。小さな執着も身の回りにたくさんあります。少しずつ断捨離してください。そして、「手放す」ことに執着してしまうことも多々あるので注意です。
おまけ:キーワードでいうと、美容家の方の「まーぼーろーしー」も「妄想」という意味でちょいちょい使わせていただいてます。これは妄想だなと気づいた時に「やだ〜ま〜ぼ〜ろ〜し〜」って言います。気持ちが明るくなって良いです。